1980年、秋 ボブ・ディランの(Idiot wind)「愚かな風」を訳した。

東京高円寺の下宿は3畳一間の下宿だった。
(名曲「神田川」に三畳一間の小さな下宿とあるがそんなに抒情的ではない)

神田川

神田川

1980年の秋、その室でボブ・ディランの「愚かな風」を日本語に訳してみた。


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大学の英語の授業では、ダスティンホフマンの映画で有名だった「卒業」を教材に使っていた。

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またマルクスの「賃労働と資本」を経済学言論Ⅰでは英訳を和訳になどしていた。

今頃、マルクス経済など勉強しないが、当時は近代経済とマルクス経済が経済学の2本柱で、キン経・マル経とよんでいた。

同じ経済学なのに主張が全く違う。

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ここで違いがあっていいんだ、いろいろありますよと学び現在に至っている。

ボブ・ディランの「愚かな風」の和訳は出版物でいろいろ出ていた。

しかし今のように、簡単にパソコンが教えてはくれない。

自分なりに、受験で使った英語の辞書を片手に訳した。

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ボブ・ディランの詩は難解で知られていた。

直訳しても意味不明だった。
ボブ・ディランの詩を英訳している自分に酔っていたのだろう。

結局難しい言葉をリズムに乗せて歌う、ディランの真意はわからない。

しかし内容は散々世間や為政者、学者などをこき下ろしながら最後に1言ディランは

次の詩をつづるのだ。

Idiot wind,

白痴の風だぜ

Blowing through the dust upon our shelves,

おれたちのところの棚の上のほこりに吹きつける

We’re idiots, babe.

自身おれたちは低脳だぜ、なあ

It’s a wonder we can even feed ourselves.

おれたちが自分たちで食っていけてるなんて、不思議なこったぜ

この最後の詩は「おれたちが自分たちで食っていけるなんて、不思議なこったぜ」で終わっている。

この前の詩で散々、為政者や社会や偽善者をこき下ろしているが、最後にディランは

自分たち、すなわち自分自身を愚かだと言っている詩だ。

そうか、そうなんだ、実は批判を受ける、非難を受けるべきはディラン、我々自身、自分自身だと言っている。

高円寺の下宿でなんとなく大学生活を送っている俺なんだ。

「愚かな風」はそういう詩なのだ。

驚いた。心に重く響いた。

1980年、秋はそんな季節だった。

翌年には、高円寺を離れ、吉祥寺に住むことになる。

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時は過ぎ、2016年10月13日、大学の鹿児島校友会の集まりに参加していた。

午後9時前、私の娘からメールが来た。

「今年のノーベル文学賞はボブ・ディランだって、良かったね」

このメールを見て、そこに来たかと思った。

その後ディランはノーベル文学賞について言及していない。

それでいいのだ。そうだ。それでいいのだ。そして歌い続けている。

私は「愚かな風」や「ハリケーン」「激しい雨が降る」「風に吹かれて」「時代は変わる」

などなどのボブ・ディランの唄を今でも毎日のように聴いている。

1980年秋の自分と2016年10月の自分。

全てが変わったと思うが、実は何も変わっていないのかもしれないとふと考えるている。

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