1979年冬 故郷にて
- 2015/12/5
- コラム
東京の冬は寒い。私は南国育ちだしまた寒さにからっきし弱い。
それはこの歳になっても変わらない。
そのせいもあってか冬は故郷で過ごした。
1979年の冬も故郷にいた。
相変わらずいつものホテルでバイトをした。
夏はビアガーデンのバイト、春は婚礼や宴会のバイトをやり、
そのホテルでは少しは知られた存在となっていた。
中華料理は出来立てが一番美味しいし、宴会の進み具合で料理を作る。
そして厨房から宴会場まで運ぶ。この運ぶ仕事はバイトの役目だ。
中華料理の料理長は日本人なのだが、私にはどうしても中華系の人に見える。
3段の台車に大皿の料理を宴会のテーブル数だけ載せ、厨房から運ぶ。
作業用のエレベーターの中に今出来たばかりの料理と閉じ込められる。
実にいい匂いだ。
ふかひれスープなどもある。
北京ダックなど食べたことがないものと一緒にエレベーターの中だ。
ふかひれスープをご飯にかけて食べると美味いだろう。
美味いのはいい。美味いのはやはりいい。
1964年東京オリンピックの時、私は小学1年。
オリンピックの最後の種目男子マラソンでエチオピアの英雄アベベがぶっちぎりで金メダルを取った。
その前のローマ五輪ではあの有名なローマのアッピア街路をはだしで走り金メダルを取った。
私は記憶している。そして2位で日本の円谷幸吉が国立競技場に入って来た。
その後円谷は3位となり日本に銅メダルをもたらした。
日本が高度経済成長をひた走り始めたころだ。
その後、円谷幸吉はある遺書を残す。
この美味しさとは違う実に悲しい美味しさだ。
この遺書を是非読んでほしい。ネットで簡単に検索できる。
話がそれた。それるのが私だ。
美味いのはそれだけではない。
厨房で料理が出来るのを待っていると時々出来立ての中華料理を「おい学生、食べてみろ」と言ってくれる。
食べる、食べる、実に美味い。こんな美味いものが世の中にあるのかと思った。
宴会が終わりかたづけるのだが、宴会では酒も入りなかなか食べきれないのだろう。
皿の半分以上が残っている。
もったいないなと思いながらかたづけをした。
飽食の時代になりつつあったのだろう。
難しい問題だ。
こんなバイト生活をしながら冬を過ごした。
和食のT君ともその後何度か夜食のラーメンを食べた。
そして1979年が過ぎ1980年代へとなるのだ。
和食のT君も同じ80年代を過ごすことになる。