1981年 夏を故郷で過ごし 秋東京へ帰った!

故郷の夏は暑く、また南国の為晩秋までは暑さが続く。

それに比べ東京は早く晩秋となる。

夏を故郷で過ごし、9月初旬に東京へ戻った。

現在は故郷に住んでいるので、東京へ「行く」であるが、当時は東京へ「戻る」だった。

羽田空港から東京モノレールで浜松町まで、この段階で既に「人」が溢れている。

よくもまあ、多くの人が無言で駅を足早に歩いているものだ。

その人波みを見ながら考えた。

一人一人にそれぞれの生活があり、それぞれの暮らしがある。

これこそ超巨体都市、メガロポリス東京だ。

私はその中の一つの「街」の小さなアパートの一室で自堕落な生活をしている。

就職した同級生や学友のことを思った。

秋になり学園祭の季節だが、1年、2年のようには学園祭を積極的に楽しむ気にはなれなかった。

吉祥寺の街は色づき、井之頭公園は「秋」を楽しむ人でにぎわっている。

ちょっとしたコンサート広場があり、若者が演奏したり、歌ったりしている。

遠藤賢二
合掌
 是非、「不滅の男」を聞いてください。
加川良も亡くなった。

それを見ている、私もまだ若者だったが何か違う違和感があった。

「秋」だったからかもしれない。

私はアパートでは自炊をした。

三鷹の「三鷹ストアー」という地元ストアーでよく買い物をした。

「秋」はサンマの季節だ。

三鷹ストアーにも「旬!生サンマ」などとPOPで、サンマが売られていた。

このストアーいいところは、サンマが1尾から買えるのだ。

2尾、3尾とパック詰めしたものもあるが、トロ箱で1尾づづ買える。

1人住まいの私には助かった。

また野菜もジャガイモ、ニンジン、玉ねぎなども1個から買えた。

私はその後流通業に就職した。

このような売り方を「サイズMD」というのだと後から知った。

三鷹ストアーの近くに「中華そば 江口」というラーメン屋さんがあった。

ラーメンを湯がく「釜」とスープの「釜」あとはネギなどを切る台があるだけのシンプルな

調理場。

席もテーブル席が2台(合計4人しか座れない)とカウンター席が7席の合計

11人しか座れない。

シンプル!

なぜこんなに覚えているかというと、店の外には待つ人が必ずいるのだ。

シンプルではあるが、これぞ中華そばという醤油味。

近頃流行りのごたごたしたトッピングなどはない、メンマとネギとチャシュー1枚、ナルトだけだ。

兄弟で経営されていたのだろう。

「中華そば江口」のすごいところは、注文を一度聴いたら間違えない。

「中華、メンマ大盛、ネギなし」

「メンマだけ、ビールと あとから中華ネギ大盛」などなど

一斉に注文が来るが、誰もメモしないし、注文票があるわけでもない。

5人のグループが一緒に違うメニューを注文しても、会計時に合計でいくら

あるいは一人一人会計の場合でも間違いなく会計をこなすのだ。

職人技だ。

一番安い中華そばが290円だった。

私は結構常連でいつも中華そばを頼んだ。

厨房の職人さんの動きに無駄がないのだ。

結婚してから、三鷹に行ったとき中華そば江口へ行った。

再開発でビルの地下にお店は移転していたが、使っている椅子や菜箸なども変わっていない。

しかし経営者が高齢になったのだろう、残念なことに「中華そば江口」は現在閉店している。

誰か後を継ぐ人はいなかったのだろうか?

あの素朴でわかりやすい味、昭和の味がまた消えてしまった。

今でも故郷のラーメンはもちろん好きだが、あの「ザ・中華そば」を食べたくなる。

就職のことも考える時期になってきた。

私にサラリーマンが出来るのだろうか?

しかし就職しないと食べていけない。

こんな簡単なことをなんとなく難しく考えた。

ゼミの学友などは〇〇銀行だ、〇〇証券だなどと言って先輩の会社へ訪問などもはじめていた。

この先どうなるのだろう。

「秋」の向かう心持ちと相まって少し気が滅入る季節となっていった。

 

 

 

 

この時期、夏目漱石の小説をまとめて読んだ。

「三四郎」や「門」「それから」などなんとなく、気が晴れるような気がした。

本当は気が晴れるような内容の本ではないのだが・・・・・

東京は寒い「冬」を迎えようとしていた。

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