1980年、冬 寒かった。

1980年の暮れ、高円寺の下宿は寒かった。

南国育ちの私は炬燵一つの3畳間でじっとしていた。

師走で世間は忙しいが私は暇だった。

暇はいいが、私は「小人閑居して不善をなす」の体だ。

何を思ったか、勉強をしようと思い本を読むことにした。

本を読みながら、音楽を聞いた。

現代の若者はスマフォやユーチューブで音楽を聞くが、私の時代はカセットテープとラジオだった。

(カセットテープとラジオは流石に一体化したSONYの機械だった)

深夜放送なるものが人気で若者に受けていた。

午前1時から午前3時まで、その後夜明けまでは、トラック運転手向けのラジオが人気だった。

人気のパーソナリティーは文章を読み、その空いた時間に音楽を流した。

私はカセットテープで

ボブ・ディランやミシシッピージョンハート、ニールヤング、サイモン&ガーファンクル

トムウエィツ、などなどの他に、日本の音楽も聞いた。

斉藤哲夫、高田渡、大塚まさじ、吉田拓郎、遠藤賢二、井上陽水、豊田勇三、などなど。

その中でも、友部正人の曲を好んで聞いた。

2016年のノーベル文学賞はボブ・ディランに決まった。

私はそのことにどうこう言うことはない。

だが、日本のボブ・ディランは友部正人だと思っている。

1980年の暮れも友部正人は京都の小さなライブハウスで歌っていた。

NHKの紅白歌合戦の会場とは全く違う、薄暗い30人ほどしか入らない場所だ。

情報誌ピアで確認すると、なんと12月だけで8県の19のライブハウス・公民館などで歌っている。

全国を旅し、全国の小さな場所で唄を歌い続けている。

名曲「一本道」や「遠来」など今聴いてもいても実にいい。

決して、ギターがうまいわけでもない。声がいいわけでもない。

友部正人がそこにいて、唄っている。この現実がいいのだ。

2016年の暮れ、NHKで吉田拓郎の「SONGS」をやっていた。

70歳になった、拓郎が唄っている。声量などは70歳なのだから致し方ない。

70歳の拓郎が唄っていることが重要だ。

拓郎だけあって、バックバンドやコーラスも実にうまい。

唄を聞くより、演奏を聞いている感じがした。

それが悪いわけではない。

唄い続けることが重要だ。

拓郎の全国放送を見たあと、友部正人のHPで彼のスケジュールを見た。

35年前と変わらず、地方のライブハウスで唄っていた。

私は来年還暦を迎える。

還暦の願いは、友部正人、斎藤哲夫、豊田勇三、大塚まさじの

演奏と唄をどこかのライブハウスで聞いてみたい。

彼らが唄い続けている間にもう一度、東京吉祥寺のライブハウス「がらんどー」で聞いていたように、

いやそのころの気持ちで彼らのステージを見てみたい。

暇とお金があればすぐできるが、そのころの気持ちで見られるだろうか。

1980年の暮れと2016年暮れ。

私の左指のギター肉刺は、そのころと同じ硬さになっている。

 

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