世界一美味しい想い出の味

東京高円寺にその下宿はあった。

下宿と言っても普通の家の2階が4部屋、1階が1室の間借りのような下宿だ。

そこの大家さんの名字が大家さんと言う。この話は結構コンパなどで受けた。

私はそこの2階の3畳間に下宿していた。

下宿

夏は扇風機さえない。冬は炬燵1台、それも1人用と言うか小さい炬燵だけ。

電気ポットがあり湯を沸かした。

リプトンの100Pと言う100袋のティーバックを1袋で5杯程飲んだ。

最後はお湯に薄い色がついているだけだ。

それでも東京で自分の居場所を確保でき私は学生生活をはじめた。

朝食は食パン1枚、昼食は学食の大盛り蕎麦をよく食べた。関東の醤油味が以外と口にあった。(180円)

一番のごちそうは夕食だ。

野方と言う街にある「せきざわ」と言う定食屋は学生や若いサラリーマンには人気の定食屋さんだ。

野方

つまり、安くて、ボリュームがあるのだ。

いろいろなメニューがあるが私はA定食・B定食・C定食を毎日、日替わりで食べた。

今でもはっきりメニューを覚えている。いや味まで鮮明に記憶している。

その後社会人になりそれなりにうまいものを食べているが、そのうまさを超越している。記憶と想い出が味を際立たせている。

A定食はハムサラダ(魚肉ハムの厚切りが2枚にポテトサラダ・大盛りご飯・味噌汁)

B定食はサバ味噌(サバ味噌・大盛りご飯・味噌汁)

C定食は野菜の煮つけ(野菜煮つけ・大盛りご飯・味噌汁)

A~Cの定食を毎日、日替わりで食べるのだ。

他にも焼き肉定食やとんかつ定食や刺身定食などメニューは実に豊富だ。

しかし他のメニューを注文できないわけは、単にお金がないそれだけだ。

実にわかりやすい。人生にはこのわかり易さが必要だ。

A~C定食はすべて250円。

300円台やましては500円などのメニューは頼めない。

しかし不思議と日替わりでA定食からC定食を食べていると幸福感が味わえる。

食べ終わると下宿まで20分歩いた。電車1駅分だが電車には乗れない。同じ理由だ。

「せきざわ」は本当に良心的な店で、例えば、さんまの塩焼定食は350円なのだが

秋のさんまが旬になると、市場でさんまが安く仕入れられるとのことで300円になったりするのだ。

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頑固おやじとその息子さんで切り盛りしている。

カレー大盛りは本当に大盛りで皿ではなく洗面器のような大きさで出てくる。

席はカウンターが10席ほど、あとは4人かけのテーブルだ。

知らない人と合席はいつものこと、なにも気にならない。

頑固おやじとその息子は大の巨人ファンだ。テレビは巨人の放送だけ。

巨人がリードすると、おやじは厨房で食事をつくるのだが、ピンチになるとつくるどころではない、テレビの下の席でテレビを見つめる。

その間は誰も注文やさいそくが出来ない。それでも文句を言うお客はいない。

それが「せきざわルール」だと皆が知っている。

巨人が勝つとご飯の盛りが明らかに大盛りの大盛りになる。

斎藤哲夫の「さんま焼けたか」の歌を地で行く店だ。

斎藤哲夫

しかしなぜ、A定食の魚肉ハムがあんなに美味かったのだろう。

A定食を注文する。「Aお願いします」すると巨人戦の時間以外は物の1分しないうちに運ばれてくる。

私はおもむろにソースをテーブルから取り上げ、魚肉ハムとポテトサラダがソースで浸るくらいおもいっきりソースをかける。

ソースで浸された分厚い魚肉ハムを口に運びハムの四分の一をほおばると同時に大盛り飯を口にほうりこむ。

ハム

とにかく腹が空いているので飲み込むように食べる。食べる。食べる。

今その食べる様子が写真で残っていれば、多分芸術物だ。

味噌汁はやはり関東味。しかしそんなことは気にならない。

醤油がどうの、出汁がどうのとなんとなくうさんくさいグルメ番組がはやっているようだがその時のA定食はそんな中身のないグルメ番組などを超越している。

最後は味噌汁を最後まで飲み干す。

この満足感は言いようがない。たとえられない。なんと言おうが世界で一番美味い。

私の「青春の味」だ。

故郷の味や母の味もあるが、この魚肉ハムはまた格別だ。

私はもう本当に歳をとったが、今一度「せきざわ」でA定食を食べたいと思っている。

微かな私の夢だ。息子さんの息子さんが「せきざわ」を続けていないだろうか。

チェーン店にはない物語が確かに「せきざわ」にはあった。

もう38年も前の話である。

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